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将棋雑話対訳集

幸田露伴による将棋雑話は将棋ファンには興味深い話が多いものの現代では多少読みづらくなっているので、かつて掲示板上で現代口語にしてたことがありました。未完ながら一話完結形式でもあり、こちらに所載しておきます。[1]

二 王と玉と

 王と玉に関する考察

朝川善庵[2]の随筆に、「私はかつて大橋宗桂[3]の依頼に応えて、彼の著書である将棋の本に序文を書いたことがあったが、王将という駒の名称には非常に疑問である。王ならば王、将ならば将とすべきであり、王と将の名称が混同されているのはどうにもおかしいと思い、色々な本を読み考証してみると、初代宗桂から四代宗桂まで代々著述した将棋図式[4]には、双方とも玉将と書いてあり王将の名前はない。したがって、考えるに玉を大将に擬し、金銀を副将と考えるべきである。そのようにすれば、金将、銀将という名前が付いているのも根拠がわかるのであり、一際面白く思える、しかし五代目宗桂以後、両方が同じでは紛らわしくなるのを嫌って、一方から一点を省略して区別したものであろうと、今の代の宗桂が言うところによれば、それは必ずその通りであろう、そのようにした理由は毎年十一月十七日は慣例として江戸城において、将棋をするように仰せつかっており、その棋譜を献上するときに両方とも玉将と書くことが先例であり、王将と言わないことは家伝となっていたが、今まで代々玉将と書いて献上していた理由は知らなかった、しかし、この説明で明白になったと。そして遂に、彼がかつて著述した本を『将棋明玉』[5]と名前を変えて出版し、私の序文をのせた」と言っている。『将棋明玉』という本は今でも現存している。玉将を王将とすることが間違いであることは、全く善庵の説の通りである。(但し王将も古くからの俗称であり『御湯殿上日記』[6]の、文禄四年[7]五月五日のくだりに、太閤(豊臣秀吉)の使者として菊亭[8]、観修寺[9]、中山[10]が、将棋の王将を改めて大将に直すようにとの仰せがあった[11]、と書いてあるのを星野博士[12]が見つけ出して論じられたこともあった。玉を王と呼ぶことがあったのは五代目宗桂以降のことというわけではない)ただし、王と玉は点の有無の違いで見分けがつくだけではなく、点が無い王の方も玉と読むべきで、古文では、王と玉の意味が区別されていないことがある。王の字は横に三本の線があり、真ん中に縦線が一本あるのは天上に近いことを表す帝王の王の字であり、横の三線が、等しいことで均整を表しているのが珠玉の玉の字であるので[13]、今の将棋の駒で一方を玉と書いて、一方を王と書いているのも誤りであるとは言えない。ただ、これを玉将ではなく王将と発音するのは間違いである。棋聖小野十二世名人のような人は、常に玉と呼んで、未だかつて王と呼んだことがない。これは正しい伝統を失っていないものであると言えるであろう。

 王と玉と

朝川善庵の随筆に予先年大橋宗桂の需に応じて其著述せる将棋の書に序することありしに王将といふ馬子は何とも疑はしき名なり、王ならば王、将ならば将といふべし、王と将と混称するの理あるまじとて将棋の諸書を攷証するに、開祖宗桂より四代目宗桂まで代々著述することろの将棋図式には、双方とも玉将とありて王将の名なし、よつて思ふに玉を以て大将とし、金銀を副将とするなるべし、左すれば金将銀将の名も拠ありて、ひとしほ面白くおぼゆ、蓋し五代目宗桂以後双方の同じく紛はしきを嫌ひ、一方は一点を省きて差別せしにやあらんと、今の宗桂に語りしに、宗桂曰く、それは必ず然るべし、其わけは毎年十一月十七日御吉例にて御城に於て将棋仰せつけられ、其図譜を上るに、双方とも玉将と書すること先例にて、王将といはぬことの由、家に申伝へ、今に代々玉将と書きて上れども何故といふことを知らざりしに、これにて明白なりと、遂に其嘗て著述せる書を将棋明玉と名を易へ上梓し、予が序を巻首に載せたり、と云へり。将棋明玉は其書今存す。玉将を王将とするの非なることは、まことに善庵の説の如し。(但し王将もまた古き俗称なり。御湯殿上日記、文禄四年五月五日の件に、太閤より菊亭、勧修寺、中山御使にて、将棋の王将を改めて大将に直され候への由申さるる、御心得あり、と見ゆるを星野博士の見出して論ぜられしことあり。玉を王と呼びたるも五代目宗桂以後の事にはあらず。)ただし王と玉とはただ一点の有無によりて相分るるのみならず、王の字に点無きもまた玉と読むべく、古文は王と玉と甚だ相異ならざるなり。王の字の横の三画の中の一画上に近きものは帝王の王の字にして、横三画相均しきものは珠玉の玉の字ならば、今の将棋の馬子に、一方を玉と書して一方を王と書せるも過誤ならず、ただこれを玉将と呼ばずして王将と呼ぶは過誤なるのみ。棋聖小野氏の如きは常に玉とのみ呼びて、未だ曾て王と呼ばず。これ其正しきを失はざるものといふべし。

三 馬子の文字

 駒の文字

水無瀬兼成卿[14]には男子がなく、高倉永家[15]卿の子、親具[16]を養子とした。後になってから兼成に実子ができた。この子を氏成[17]といった。ここに至って親具は自ら家督を譲ることにし、出家して一齋と名乗った。一齋は書道に長けていることで名高かったので、豊臣秀次公[18]は、一齋に将棋の駒の銘を頼むようになった。これが水無瀬家が将棋の駒に銘を書き始めた端緒であったという。世間には、水無瀬兼成が著した『将棋駒の記』というものが一巻あって、この事について記している。また、享保六年[19]北御堂前[20]の毛利田庄太郎という者が印刷して、堂島新地[21]の原喜右衛門というものが書いた『象戯名将鑑』[22]という本があった。その本の二巻の十二枚目の裏の上段の注釈に、「水無瀬大納言様が墨書きされた駒があるが、この駒で、永押[23]がない座敷で指してはいけない、本来、古安立[24]は禁筆となっていたのであるが、橘屋平右衛門に対し、四代前の七郎右衛門が将棋で勝ち越したので、安立は、七郎右衛門に対して、お前に駒を一式作ってやろうと仰せになり、一年にしてようやく完成し、見事な駒になりました。酔象の駒も二枚ありますので、望まれる方は私にお申し付け頂きたく、お望みには応えるつもりであります」と書いてある。この点について考証してみるべきである。最近の人では董齋[25]が駒の銘を書いているという、自分ではこれを見たことがないが、確かに董齋の名が入ったものを見たと語る人がいた。普通、将棋を好む人が用いるのは、金龍、眞龍、安清などが作っている駒である。金龍の駒は眞龍よりもすぐれ、眞龍は安清よりもすぐれている。金龍、眞龍あたりが作っているのは、王将の下に銘が彫ってある。駒の文字も大変正しくて読みやすく、玉は必ず二枚とも玉と書いて王とは書かない。安清のものは銘は無いが、その文字の飄々とした趣が、自ずから一流のものであると感じさせるているので、一見して解ってしまう。これ以下の駒は番太郎駒と呼ばれる物で、品質は悪く、文字はほとんど読むことができい。この他、人の好みによって作らせた駒は、巧い書家の駒であっても、色々な物が存在する

 馬子の文字

水無瀬兼成卿男子無くして高倉永家卿の子親具を養子とす。後に至りて兼成実子あり。氏成といふ。ここに於て親具家督を辞し、剃髪して一齋と号す。一齋能書の名ありければ、豊臣秀次公一齋をして将棋の馬子の銘を書かしむ。これ水無瀬家将棋の馬子の銘を書する始なりといふ。世に水無瀬兼成撰める将棋駒の記といふもの一巻ありて此事を記せりとぞ。享保六年大坂北御堂前毛利田庄太郎といふものの板にて堂島新地の原喜右衛門といふものの作れる象戯名将鑑といふ書あり。其巻の二の十二丁裏の鼇頭に、水無瀬大納言様墨書の駒あり、此駒にて永押無之坐敷にて指事無かれ、元祖古安立禁筆にて御座候、橘屋平右衛門より四代前七郎右衛門手直りて御座候に付き安立仰せあるるは、其方へ駒を一面拵へ下可申との御事にて、やうやく一年にて出来、扨々見事成る駒にて御座候、醉象の駒二枚有、日本に一面の駒にて御座候、御望の旁は私方へ御申可被成候、所望仕進可申候、とあり。併せ考ふべきなり。近き頃の人に手ては董齋馬子の銘を書きしといふ。おのれ之を眼にせしにはあらねど、たしかに董齋の名のありしものを見しと語れる人あり。普通将棋を好む人の用うるは、金龍、眞龍、安燭覆匹梁い譴詛六劼覆蝓6睥兇眞龍よりも勝れ、眞龍は安燭茲蠅眈,譴燭蝓6睥金知兇覆匹梁い譴襪蓮玉将の後に銘あり。駒の文字もいと正しくて読み易く、玉は二枚とも必ず玉と書しありて王とは書さず。安燭里鰐談気韻譴鼻△修諒源飄逸の趣ありて、おのづから一家をなせば、一見して知るべし。これより以下の馬子は、世にいふ番太郎馬子にして、其品甚だ陋 しく、其文字殆ど読むべからず。此他人人の事好みによりて造らせたる馬子には、よき人の筆になれるもさまざまあるべし。

四 玉将につきての俗説

 玉将についての俗説

いわゆる番太郎駒[26]の玉将は一つは玉と書いてあるが、一方は王と書いてあるために、対局する時、身分の高い方に玉という字の駒を譲るのが礼儀であるなどという俗説がある[27]。取るに足りない説である。しかし、一つは玉と書いて、一つは王と書くのは最近のことではない。、『壒嚢抄』(あいのうしょう)[28]は文安年間に書かれた書物であるが、その中に将棋の駒について、一つは玉と書いて、一つは王と書くのは、国に二人の王があるのを嫌っているからである、これは駒の書家[29]の口承であると書いてある。私は、まだこの本を読んではいないが、いかがわしく愚かしい口承であると言うべきである。

 玉将につきての俗説

いはゆる番太郎馬子の玉将の一方は玉とあれど、一方は王とあるがために、局に対する時、貴き人の方へ玉といふ字の馬子を与ふるは礼なりなどといへる俗説あり。取るに足らぬことといふべし。されど一つは玉と書き一つは王と書くも新らしからぬことなるにや、『壒嚢抄』(あいのうしょう)は文安年間に成りたる書なるが、其中に象戯の馬子のことをいひて、一つは玉と書き一つは王と書くは、國に二王あるを忌むなり、これ手跡家の口伝なり、とありといふ。おのれ未だ本書に就いては見ざれど、如何はしき愚なる口伝なりといふべし。

十 将棋を弄ぶもの親の死期に会はず

 将棋に耽るものは親の死に目にあえず

世の中では将棋に耽るものを罵って、親の死に目にもあえないようになると言う。これは、言葉のいわれを知らない者が語り継いだ誤りであり、元の意味は将棋に耽る者を戒めるための言葉ではなく、対局におよんでは、雑念無く、厳粛に勝敗を決めるべきであるという意味であった。江戸時代では大橋、伊藤の二家は、将棋によって家禄をもらっていたが、もともと将棋に詳しいだけで、対局の無い日は何の仕事もなく、ただ毎年11月17日には江戸城で御城将棋を執り行い、それを将軍にお見せすることが、その仕事であった。しかし、達人同士が、互いに本気で戦う場合は、一、二時間程度では勝負が終わるわけもなく、定めによって、その日中に勝敗が決まらなければ、寺社奉行の家で勝敗を決して、後に内容を将軍に報告するのが常であった。この寺社奉行宅で対局している最中は、真剣勝負であったため、勝敗の決まるまでは、何時間かかろうとも、家に帰ることが許されない決まりであり、将棋によって家禄をもらっているものの一年に一度のつとめであったので、この際は、親が危篤であっても、対局を終えなければ帰ることができないと定められていたといわれる。これが誤伝して、将棋に耽る者は親の死に目にもあえないと巷間伝えられている。

 将棋を弄ぶもの親の死期に会はず

世俗好んで将棋を弄ぶものを罵つて、親の臨終にも会はざるに至らんといへり。これ其原 くところを知らで云ひ伝へたる誤謬にして、語の意は本将棋に耽るものを戒めんとするにはあらで、局に対しては他念無く厳粛に勝敗を決すべきことを言へるなり。徳川氏の時は大橋伊藤の二家将棋を以て禄を受け居たることなるが、もとより将棋に詳しきのみの人々のことなれば平日は何の勤務もあるにあらず、ただ年毎に十一月の十七日御城に於て将棋を闘はせ、之を将軍の御覧に供するを其務となせるなり。されど考深き人の互に負けじと争ひたらんには、一時二時にて果つべくもあらぬに定まれることなるをもて、其日に勝敗を決定するに至らざれば引続き寺社奉行宅にて勝負を決し、後其差し口通りを将軍に報ずるを常とす。さて其寺社奉行宅にて二人相戦ふ間は、真の争ひのことなれば勝負の決まるまでは幾時に渡るとも家に帰ることを免さざる掟にして、縦ひ親の死期に臨むとも、将棋を以て仕ふる者の一年に一度の勤務の事なれば、之を顧ること無くして一局を差し切らでは済まぬ筈なりと定めたりしなりといふ。此事を誤り伝へて、将棋に耽るものは親の死期にも会わずなどとは云へるなり。

十二 将棋と吉備真備と大江匡房と

 将棋と吉備真備と大江匡房と

宝暦三年(1753)に書かれた伊藤看寿[30]の著作、『象戯百番奇巧図式』[31]に林信充の序文がある。その序文に『象棋家伝』[32]を引いて「先の天皇の時、吉備真備[33]が、再び遣唐使[34]として派遣され小将棋を得て帰る、その図を見ると、両方の陣地の王将の前に酔象があり、左右の金将の前に猛豹があった。しかし、それでは、兵法の役には立たなかったので、兵法を極めた大江匡房[35]が象と豹を取り去って中国に伝えた。今行われている将棋はこれである」などと書いてある。この記述は将棋雑考に載せるのを忘れたが、将棋史を探求しようとするものは、顧みるべきものである。[36]

 将棋と吉備真備と大江匡房と

宝暦三年伊藤看寿著はすところの象戯百番奇巧図式に林信充の序あり。其序に曰く、象棋家伝へ称す、先王の時吉備公再び唐朝に聘小将棋を得て帰る、其図状を案ずるに、両営、王将の首に醉象あり、左右金将の首に各々 おのおの猛豹あり、然れども其精思を得る莫きなり、大江匡房兵理を窮む、因て象豹を去りて而して中華に伝ふ、今の行ふところ是なり、云々。此序は予これを将棋雑考に載せ漏らせしが、将棋の史を究めんとするものの一顧すべきところのもの也。

十四 伊藤看寿七歳にして宗看を驚かす

 十四 伊藤看寿七歳にして宗看を驚かす

伊藤看寿は名を正福(まさとみ)といい、宝暦年間(1751-1763)頃の人であって、伊藤宗看(七世名人)の弟であった。まだ七、八歳の時に詰め将棋の本を読んで、宗看の方を見て、それを評価した、その言葉が、非常に当を得ていたので、宗看は大いに驚いて、非凡な子であると言った。看寿の作った詰め将棋の将棋図巧の巻末にあるものは、六百十二手に至るものであったが、看寿がこれを作ったときは、わずか十三歳であった。驚くべきことである。

 伊藤看寿七歳にして宗看を驚かす

伊藤看寿名は政福、宝暦年間の人にして、伊藤宗看の弟なり。年方に七八歳の時贏局の書を閲て、宗看を顧て之を評しけるに、其言甚だ妙なりければ、宗看大に驚きて非常の児となせりといふ。其作る所の贏局の図、将棋図巧の巻末に見ゆるものは、実に六百十二手なるが、看寿の之を作りし時は年甫めて十三なりしとぞ。驚くべきかな。

文中にある将棋図巧巻末の詰め将棋

後手の持駒:桂三 
9 8 7 6 5 4 3 2 1
+---------------------------+
|v金 ・ ・ ・v歩 ・ ・ ・v龍|一
| ・ ・ ・v香 歩 金 ・ ・ ・|二
| ・v銀 ・ ・ ・ ・v歩v歩v歩|三
| ・v香 ・ 角 ・ ・ ・ ・ 歩|四
| 香 ・ ・v角 ・v玉 歩v香 ・|五
| ・ ・ ・vと ・ ・ ・ 龍vと|六
| ・ ・ ・vと ・ ・v全 ・ 銀|七
| 圭 歩vと ・v金 銀 ・ ・ ・|八
| ・v金vと ・ ・ 歩 ・ ・ ・|九
+---------------------------+
先手の持駒:歩四 

十八 大橋宗英鬼と呼ばる

 大橋宗英、鬼と呼ばる

大橋宗英(九世名人 1756-1809)は安永(1772-1781)、天明(1781-1789)年間から文化(1804-1818)年間に至るまでの間において、英雄であると称することのできる棋聖であって、彼が人と対局するときは、正攻法と奇襲策が千変万化するようであり、昔の名将が兵を統率するようであったので、天下の棋客は皆、最後にはため息をつき、うなだれて、彼を鬼宗英と呼ぶようになったという。宗英の気質は真っ直ぐで温和であり、将棋以外には趣味もなく、他に得意とするところも無かったので、まさに天は将棋のためにこの人を世に降したかのようであった。このようであったので、宗英の前に宗英無く宗英の後には宗英無しというべきであり、歴代の棋聖に長所短所はあり、技の高低はあったとはいえ、その間に立って毅然として、そびえ立っているさまは、抜群に高い山が周囲の山の間にあるようであった。かれの著作である『歩式』二巻は、晩年に古い戦術に新しいものを加えて成立したものであり、まさに将棋の聖典といえるものであったので、今の棋聖、小野翁(十二世名人)も常に人に対して『歩式』二巻を読めば技量は自然と上がると言っていた。宗英が死んでから、今ほぼ百年がたとうとしているが、彼が残したものは、未だに将棋道の後進の役に立っているところであるのは、その力量が非常に優れていたからだと言えるだろう。

 大橋宗英鬼と呼ばる

大橋宗英は安永天明より文化に至るまでの間に雄を称せるの棋聖にして、其人と戦ふや一正一奇千変万化、古名将の兵を用うるが如くなりければ、天下の棋客皆終に屏息俯首して之を呼んで鬼宗英と称するに至れりといふ。宗英は性質直和淳、将棋以外の何の好むところも無く、何の長ぜる技も無かりしといへば、真に蒼天将棋のために此人を世に降せしものの如し。されば宗英以前に宗英無く、宗英以後にも宗英無く、歴代の棋聖長短あり高低ありといへども、其間に立て巍然として獨 ひとり聳ゆること猶富嶽の郡山を抜くが如しといふ。其著すところの歩式二巻は晩年に古法を按じ新意を加えて成せるところの書にして、実に将棋の聖経なれば、今の棋聖小野翁の如きも常に人に対ひて、歩式および其二篇を見よ、技はおのづから進まんと教へらる。宗英死して今殆ど百年ならむとす、しかも其残膏餘瀝、猶斯道の後進の枯腸枵腹を潤して生気漸く盛んなるに至らしむるは、其力量もまた大なりといふべし。

大橋宗英の棋譜の一つ

開始日時:1790/11/17
棋戦:その他の棋戦
戦型:その他の戦型
先手:六代大橋宗英
後手:九代大橋宗桂

場所:江戸城

  • 棋戦詳細:御城将棋 将棋粹金第023番
  • 「六代大橋宗英(35歳。後の名人)」vs「九代大橋宗桂八世名人(47歳)」
  • 寛政二年十一月十七日(1790/12/22)

▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲4八銀 △3二銀
▲5六歩 △5四歩 ▲3六歩 △4三銀 ▲2五歩 △3三角
▲7八銀 △6二銀 ▲5八金右 △5三銀 ▲3七桂 △3二金
▲6六歩 △5二飛 ▲6七銀 △5五歩 ▲同 歩 △6四銀
▲5四歩 △同 飛 ▲7九角 △4一玉 ▲5六歩 △5五歩
▲5七金 △5六歩 ▲同 金 △5五銀 ▲同 金 △同 飛
▲5六歩 △5二飛 ▲5八金 △8四歩 ▲6九玉 △8五歩
▲7八玉 △8二飛 ▲7七銀 △5二金 ▲1六歩 △4二角
▲1五歩 △7四歩 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 角 △同 角
▲同 飛 △2三歩 ▲2六飛 △6四歩 ▲4六歩 △8四飛
▲3五歩 △7三桂 ▲4五歩 △同 歩 ▲5五歩 △5三歩
▲3四歩 △8六歩 ▲同 銀 △4四角 ▲2九飛 △6五歩
▲同 歩 △3六歩 ▲6六角 △8一飛 ▲4五桂 △4六金
▲3三歩成 △同 桂 ▲同桂成 △同 角 ▲5七銀 △同 金
▲同 金 △7五歩 ▲4五桂 △2四角 ▲3三歩 △2二金
▲5四歩 △同 銀 ▲2四飛 △同 歩 ▲3二角 △5一玉
▲5四角成 △同 歩 ▲5三歩 △4八飛 ▲5八銀 △5六角
▲8八玉 △4五角 ▲5二歩成 △同 玉 ▲5三歩 △6二玉
▲6四銀 △7四銀 ▲5二歩成 △7二玉 ▲7三銀成 △同 玉
▲6四金 △8三玉 ▲7四金 △同 玉 ▲7五銀 △6三玉
▲6四銀
まで121手で先手の勝ち

二十番 天野宗歩一世を壓す

 天野宗歩一世を風靡する

天野宗歩、幼名は留次郎は文化十三年に江戸の菊坂に生まれた。年齢、六歳にして十一世大橋宗桂に、その技量を知られるようになった。宗桂の教えを受けて、技量は大いに上がった。そして、諸国を周遊して、あちこちで、対局し、最後には京都にとどまって、群雄を圧倒した。宗歩の気性は人に抜きん出て束縛されないたちであったが、師を尊ぶの情が甚だ扱ったので、終生、七段に留まることに甘んじた。七段以上の技はあったが、自分の段位を高くして、師に比べようとすることを欲しなかった。あるいは、宗歩は御前で大橋宗珉(そうみん)と戦って敗れたために、七段に止まったとあるが、疑うべきである。宗歩が七段に留まっていたので、天下の棋客は一世の雄たる宗歩が自ら謙譲して七段にとどまっているのを以って、英傑の資質があると考えていたが、自分たちが七段以下に留まることはできなかったという。

 天野宗歩一世を壓す

天野 宗歩 幼名は留次郎、文化十三年江戸の菊坂 に生る。歳甫六歳にして十一世の大橋宗桂に其技才を知らる。宗桂の教を受けて技大に進み、諸国に周遊して到るところに技を闘はし、遂に京都に止まつて郡雄を控制す。宗歩気象卓犖 不羈 といへども師を尊むの情甚だ篤を以て、身を終るまで七段を以て甘んず。蓋し七段以上の技無きにあらざるも、自ら高くして以て我師に比んとするを欲せざるなり。或は曰く、宗歩柳営に大橋宗珉(そうみん)と戦つて勝たず、故に七段に止まると。疑う可し。宗歩現に七段なれば、天下の棋客は一世の雄たる宗歩が自 ら卑うして七段に居るの故を以て、英傑の資あるものといへども、おのづから七段以下に屈せざる能はざりしといふ。

二十一 宗歩腹戦

 宗歩腹戦(頭の中の対局)

天野宗歩は技量が抜群であるのみならず、自由気ままな性分であったので、酒や来客を好み力士などを家に養っていたので、かえって、棋客と対局することは稀であったという。世間の棋客にとっては、宗歩はどうすることもできない強敵であって、宗歩にとっては、世間の棋客などは、小僧のごとき連中であったため、宗歩が酒を含んで、笑ってばかりいる日が多くて、将棋について考慮する時が少なかったのも、異なことではない。しかし、芸事は熱心に励めば精妙になり、怠れば荒んでいくことが道理であれば、どんな棋聖であっても、盤に向かわない日のみが多くなって行けば、自然と、心が疎かになり、いくらか技が衰えていくのが道理であるのに、宗歩のみは日々遊びくらして、駒を手にする時が全く多くなかったにも関わらず、いざ対局となった時は、その技は少しも衰えておらず、返ってますます研ぎ澄まされているさまは、あたかも宝刀が、新しく研がれている如くあったので、会う者は、ますます驚嘆して、辟易としないものはいなかった。ただし、宗歩は表向きは日々遊び暮らしているようであっても、心の中では、折に触れ、いつということもなく自問自答して、将棋への思いを尽くし、技を練っていたとおもわれ、その証拠に宗歩はいつの夜も眠れば、寝言を言わないことは少なく、寝言をいえば将棋のことでないことは少なく、三一の角、四六の歩などと指揮命令する語気は、とてもはっきりとしていて厳しく、あたかも、目が覚めている者が言っているように聞こえたという。小野(十二世)翁なども若いころは宗歩の家にいて、その夜中の声を聞くことはいつものことであったと、私に語ってくれた。古い文人は、腹中で原稿を練っていたとの誉れがあるものがいるが、宗歩の如きは、腹中で対局をしていたというべきであろう。

 宗歩腹戦

宗歩は技倆抜群なるのみならず気象もまた不羈なりければ、酒を嗜み客を愛して、力士などを家に養ひ、却つて棋客と局に対することは稀なりしといふ。世の棋客に取りては宗歩は如何ともすべからざるの強敵にして、宗歩に取りては世の棋客は眼中に入らざるの豎子輩なれば、宗歩が杯を啣て笑傲 するの日多くして、局に対して考慮するの時すくなかりしを異とするに足らず、されど芸は勤むるには精しくなり怠たるには荒み行く道理なれば、如何なる棋聖も局に対はざるの日のみ多くなり行けば、自然から心疎なりて聊か其技の衰え退く習ひなるに、宗歩のみは日々遊び暮して馬子を手にする折のいと多からざるにも似ず、いざとて敵を見て戦ふ時は、其技の毫も退かざるのみならず却つて益々鋒鋩鋭利に、恰も宝刀の新により発せしが如くなりしかば、会う者いよいよ驚き歎じて辟易せざるは無かりしとぞ。ただし宗歩のかかりしは表面には日々遊び暮しながらも、心の中には折に触れて何時といふこと無く自ら問ひ自ら答へて、思ひを覃し技を錬りしが故と覚しく、其證には宗歩何時の夜も眠れば則ち囈語せざること鮮く、囈語すれば則ち将棋のことを言はざること鮮く、其三一の角、四六の歩などと指揮命令する語気など、いと明かにして而も厳く、恰も寤めたるものの言いふごとくなりしといふ。小野翁の如きも若き時宗歩が家に在りて、其夜半の声を聞きしこと毎々なりしと予に語れり。古への文人には腹稿の誉れあるものありしが、宗歩の如きは腹戦をなせるものといふべきなり。

二十二 将棋盤の定寸法

 将棋盤の定寸法

享保二年(1717年)に書かれた『大匠雛形』[37]六巻は、工芸職人が倣うべきである本であるが、その第六巻の「小坪規矩追加」[38]の一冊に将棋盤の定寸法について書いてある。大将棋盤は広さは一尺六寸(約48.41cm)で盤目は15に分割して、長さは広さより目一つ分大きくした上で15に分割するべきであり、厚さは二寸六分(約7.87cm)、足は太さ二寸二分(約6.66cm)にして、目一つ分中に入れてつけるべきである。中将棋盤は広さは一尺四寸(約42.36cm)にして、盤目は十二に分割し、長さは広さより目一つ分長くして、十二目に分割するべきである。中将棋盤の厚さは二寸二分(約6.66cm)にして、足の太さは一寸八分(約5.45cm)にして、八分(約2.42cm)入ったところに取り付けるべきである。小将棋盤は、長さは一尺二寸(約36.31cm)にして、盤目は九つに割り、広さは長さより目一つ分狭くして、盤目はやはり九つに割り、厚さは一寸八分(約5.45cm)にするべきである。私は、大将棋盤、中将棋盤についてはどうであるか知らないが、小将棋盤については、この本にはかように書いてあるが、現在では厚さ三寸五分(10.59cm)から四寸(12.10cm)ほどであるのを愛し用いる習慣になっている。[39]昔は大変質素であったことがうかがいしれる。

 将棋盤の定寸法

享保二年に成れる大匠雛形六巻は工匠の拠りどころにするところの書なるが、其第六巻小坪規矩追加の冊に将棋盤の定寸法見えたり。曰く、大将棋盤、広さ一尺六寸にして目数は拾五間に割り、長さは目一つ長くして十五間にすべし、厚さ二寸六分、太さ二寸二分、足は目一つ入れて付くべし。中将棋盤、広さ一尺四寸、十二間に割る、長さ一目長くすべし、それを十二間に割る、厚さ二寸二分、太さ一寸八分、足の入りは八分なり。小将棋盤、長さ一尺二寸にして九目に割る、広さ一ト目狭くして九ツ目にすべし、厚さ一寸八分と。大将棋盤、中将棋盤は如何に知らず、小将棋盤は長さ広さ共に右の如くなれど、厚さは三寸五分、四寸ほどなるを今は賞で用ゐる習なり。古はいと質素なりしなるべし。

二十三 市川太郎松天野宗歩と且飲み且戦ふ

 市川太郎松と天野宗歩の酒と舌戦

市川太郎松は宗歩を師のよう仰ぎ、しかも技量も宗歩に多少及ばない程度であった宗歩は七段、太郎松は六段。その差は半香にすぎず、太郎松も将棋を深く好んでおり、多少の暇の間にも将棋の工夫や鍛錬を怠らなかったので、宗歩も並みの棋客とは同一視しておらず、太郎松も宗歩に対して天が諸葛孔明を生まれさせたことを恨んだ周瑜のような感情を抱いていた。しかしながら二人とも、心涼しき人であったので、隔意もなく行き来をしていた。宗歩も太郎松も酒を好んでいたので、二人が会えば、酒をのんで、なごみながら語らうのは、いつものことであった。酒を酌み交わしている折には、お互いに戦いについて語るのは、好きなことであるので、太郎は質問を発して、前にあるところで、心に留め置いたことであるが、このような争いのとき、敵からこのような妙計をもって攻めかかられたとき、味方の対応策がなく、苦しんだことがあるが、どのようにすればよかったのでしょうか?などと言うことが、しばしばあった。それは、このようにすればよかったという宗歩の答えは、さすがに、たいていは、理を得ていることがおおかったが、宗歩も神ではないので、答えが太郎松を満足させないことも時にはあった。そのようなときには太郎松は顔をあげて、そのような計略は私も知らないことはないが、その策をとったときに、このような策をとられたらどのように対処するのかなどと詰る。詰られては宗歩も譲るわけにはいかず、そのような計略はこのようにして防げば大したことはないと誇る。すると太郎松は、いやいや、それであれば、このようにして攻めてこられるのに、どのようにして抵抗するのかなどという。宗歩はわかりきったことである、そのようなことを何故怖れるのか、このようにして守ればよいという。太郎松が、では、このように追われたらどうするのかと迫ると、宗歩は、このように避けると嘯く。そこで、太郎松が、このように侵掠されればと罵倒すると、宗歩は、このように報復すると嘲笑する。最初は談話に過ぎなかったものが、次第に争いのようになって、最後には龍虎の争いのような激しい戦いとなり、互いに酒をのみながら、他の話もなく、互いににらみ合って、双方の一言が、斬撃と受け太刀のようにしのぎを削り、辛くも宗歩の勝ちになることもしばしばあったという。あるときには、太郎松が返ったあと、宗歩はその場に居合わせた弟子に向かって、何とか圧倒して帰したが、本当のところは自分が最初に挙げた策は非常に悪かったのであり、お前たちは、私が勝ったことを以って、私の策が良い手段であったなどと思ってはいけない、危ないところであった、太郎松は実に自分を苦しめた、などと笑いながら語って汗を拭うこともあったという。

 市川太郎松天野宗歩と且飲み且戦ふ

市川太郎松は宗歩を師の如くにして交はり、而も技もまた宗歩に譲ること多からず。宗歩は七段、太郎松は六段、その差は香車半枚のみなる上、太郎松も将棋を好むこといと深くして、少しの間にも工夫鍛錬を怠らざるものなりければ、宗歩も等閑の輩とは一つに視 ざりしなるべく、太郎松はまた天の孔明を生ぜるを恨みたる周瑜の感を懐きしなるべし。されど二人とも心清しきものなりければ隔て意も無く行通ひ居けるが、宗歩も太郎松も酒を嗜めるものから、二人相会へば酒を呼びて睦み語らふは大概常のこととなり居りたり。飲酌の折から互に好める道なれば、太郎松問を発して、過ぐる日某処にて心に留め来しなるが、如是如是箇様箇様の争ひの時、敵より是の如き妙手段をもて取りかかられ、味方の之に応ずべき計策 を得ずして苦めることあり、如何にせば好からん、などと云ひ出づること数々あり。其は如是せば可 らんなどといふ宗歩の答へは流石に大抵は理に当るをもて事無き日も少からねど、宗歩なりとて神といふにもあらねば其答へ太郎松を服するに足らぬことも無きにあらず。さる時は太郎松も面を擡げて、さばかりの計策は我もまた知らざるにあらねど然すれば如是せらるるを如何にせんと詰じる。詰られては宗歩も萎み難く、其は如是して防ぐに何事かあらんと誇る。いやいや、さらば如是して攻めつけんに猶抵抗ふべきや、といふ。もとよりの事なり、何をか恐れん、如是して守らん、と云ふ。如是追はばと逼まれば、如是避けんと空嘯く。如是掠らばと罵れば、如是報ひんと嘲る。始は談話に過ぎざりしものも漸く争ひのやうになりて、終には龍虎の激しき戦ひとなり、互に杯を啣みながら余の談も無く、四目相睨みて彼一句此一句と、打太刀受太刀鎬を削って辛くも宗歩の勝ちと決まるに至ることも間々ありしといふ。さる折、太郎松帰りし後宗歩其座に居合せたる弟子共に打対ひて、辛くも圧しつけて帰したるが、まことは我が初めの手のいと悪かりしなり、汝等今我が勝ちたるの故をもて我手を好き手なりと思ふなかれ、嗚呼危ふかりし、太郎松め、したたかに我を窘しめたるかな、などと笑ひながら云ひ出でて汗を拭ふこともありしとぞ。

二十四 大橋柳雪の飄逸

 大橋柳雪の飄々とした態度

大橋柳雪は、将棋で家禄を頂いていた大橋家に生まれながら、心は恬淡としていて、名利にとらわれなかった。江戸を出て、京都、大阪、近畿の間を漫遊していて、あらかじめ役所に申し出ておいた期間が既に尽きているのも顧みずにいたところ、遂に将棋の宗家の人である立場を得られなくなるところであった。しかしながら柳雪はこれをなんとも思わずに、心のままに遊びまわっていた。耳は聞こえなくなっていたが、技は鋭い人であって宗歩よりも以前の人であった、古来より将棋の強い人には宗桂・宗看・宗与 ・宗歩等、不滅の人がいるが、柳雪もまた不滅の人である。耳が不自由であるのに技がすぐれていたのは、古人の言うように徳や知恵、技芸、知能に優れている人は、常に困難を持っているということであろう。

 大橋柳雪の飄逸

大橋柳雪は将棋をもて禄を世にする大橋家に生れながら、心淡くして名利に繋がれず。江戸を出でて京摂近畿の間に遊ぶや、豫め官に請ふて得たるところの叚期の既に尽くるをも顧みずして家に帰らざりしかば、遂にまた復び将棋の宗家の人たるを得ざるに至らんとす。されども柳雪はこれを事ともせずして心のままに遊び居たりとぞ。耳は聾しひたれど技は鋭き人にして、宗歩よりは前の人なり。古よりの将棋の強き人多きが中に、宗桂・宗看・宗与・宗歩等皆不滅の人なるが、柳雪も亦不滅のひとなりなり。聾にして技に長けたるは、古人の所謂人の徳慧術智ある者は恒に疢疾の存するものなり。

二十六 将棋の種類

 二十六 将棋の種類

大将棋、中将棋、小将棋、支那将棋(象棋)、西洋将棋(チェス)は、どれも二人で行うものである。明治になって陸軍関係者が案出した師団将棋(軍人将棋)は、二人が戦って一人が審判をするものであるので、三人でなければ遊ぶことができない。中国の清の時代になって鄭破水[40]という人物の考え出した三友棋[41]は三人で戦う将棋である。司馬光[42]の案出した七国将棋[43]は六人で戦うのも三、四人で戦うのも自由である。七国将棋は日本でも江戸時代には少し行われたこともあった。七国将棋が巧かった女性がいたことは馬文耕[44]の『武野俗談』にも記述があり、また、かつて七国将棋の棋譜の
和訳が出版されたこともあった。

 将棋の種類

大将棋、中将棋、小将棋、支那将棋、西洋将棋はいづれも皆二人にて勝敗を決むる遊びなり。明治の御代に当りて陸軍の士の案じ出せし師団将棋といふは、二人は相戦ひ一人は之を判ずるなれば、三人ならでは玩ぶ能はず。清朝になりて鄭破水といふものの案じ出せし三友棋は三人して相戦ふ棋なり、司馬温公の七国将棋は六人して戦ふも三四人して戦ふも意のままなり。七国将棋は江戸にて少しは行はれしこともありしにや。これに巧なりし女のありしこと馬文耕の武野俗談に見え、また七国将棋譜の和解も出版せられしことありしなり。

二十八 囲碁象戯の難易

 囲碁将棋の難易

五雑俎[45]という本に、象棋は囲碁に比べて簡単であるとの言葉がある。中国の象棋は駒を取り捨てにして持ち駒にしないので、最後には盤上の駒の数が大変すくなくなるので、指せる手も少なくなってしまう。従って、本当に囲碁に比べて簡単である感もある。しかし、碁も終盤になっては打つ手も少なくなるので、やたらと両者の難易度を語るのは愚かなことである。日本の将棋は駒を取って使うことができるので、終盤になっては、かえって戦いも激しく、面白味も増していくのである。謝氏[46]も日本将棋を見ていれば、将棋は囲碁よりも難しいと言っただろう。しかし、本来、囲碁と将棋の難易度について言葉をもてあそぶべきでは無い。負けるのはいずれも簡単であり、勝つのはいずれも難しいのである。

 囲碁象戯の難易

五雑俎に、象棊は囲碁に比ぶれば做し易しの言あり。支那の象戯は棋子を取り棄てにするなれば、末には盤上の棋子の数いと少なくなりて、為すべき手も多岐ならざるに至るなり。さればまことに碁に比べては、末に至りて做し易き傾もあるべし、されど碁も末に至りては做し易くなるやうなれば、みだりに難易を語るは愚なることならむ。我邦の将棊は棋子を取りては用うることなれば、末に至りては却つて争ひも烈しく興も深くなるなり。謝氏も我邦の将棋を見んには、将棋却つて碁より難しとや云はん。真実は碁も将棋も之を弄するに難易あるべからず、負くるはいづれも易く、勝つはいづれも難かるべきなり。

二十九 柳雪一局に二三人を屠る

 大橋柳雪は一局で二、三人を倒した

伊藤宗看、大橋宗桂といえども一局で倒せる相手は一人にすぎなかった。しかし、大橋柳雪[47]は一局で二、三人を同時に倒すことが少なくなかったという。柳雪は江戸を出て諸国を放浪し、悠々自適の生活を送っているほどであったが、棋客で柳雪と対峙するものは、皆その強さに苦しんでいた。そこで狡猾なものは柳雪が耳が聞こえないことに乗じて、一人が、柳雪と対局するときに、隣室に対局者より、多少、将棋の技に詳しく力のあるものを伏兵として置いておき、彼らにも対局の検討をさせた。このような姦計を使うものは、戦う際に柳雪と対局しているものが、柳雪の手を告げた、例えば、三四歩、二六歩などと言う。隣室の伏兵は、その声を聞いてくまなく戦況を知悉して、苦労して妙手を見つければ、大声をあげてこれを告げた。柳雪に対するものは、凡手を捨てて妙手をとって駒を進退させた。そのようにすれば、悪賢い者たちは、時には良策を出すこともできた。柳雪は耳が聞こえないこともあり、このような計略に全く気がつかなかったので、時に、好機を逸したり、あるいは隼に撃たれるような速攻に驚くことがあった。しかし、そのようなとき柳雪は感嘆して言った。あなたの技は誉めるべきものである。段位に比べて、しばしば妙手があったと。しかし自分は、また苦心してこれに応じて、悪戦苦闘しつつも、最後にはこれを圧倒できたと。対局者と、隣室の伏兵は、数人一度に敗北し、唖然として言うべき言葉を知らなかった。このようにして柳雪はしばしば苦しんだが、そのために技量はますます向上したという。何ということであろう、このようにして天が才能のあるものに、それを発揮させるように仕向けるとは。

 柳雪一局に二三人を屠る

宗看宗桂と雖も一局一人を屠るのみ、ただ大橋柳雪に至つては一局一時に二人三人を屠りしこと少からずといふ。そは如何にといふに、柳雪江戸を出でて諸方に漂浪し優遊自適したるほどの事なり」、棋客の柳雪に対するもの、常に其の克つ能はざるに苦む。ここに於て狡黠の者、或は柳雪の耳聾せるを乗ずべきの地となし、一人局に当つて柳雪と戦ふや、其の隣室に局に当る者より稍や技精しき力強き者を伏せ、又局に対して思を覃し智を竭さしむ。戦ふに及んで、座客柳雪と相対する者及び柳雪の為すところを告ぐ、例えば三四歩、二六歩といふが如し。隣室に在る者声を聴いて一々戦局の状を知悉し、刻苦して妙手を得れば、便ち又大声これを告ぐ。柳雪に対する者、長を取り短を捨てて馬子を進退す。されば黠者の党、時に佳策無きにしもあらず。柳雪耳聾の故を以て毫もこれを覚らず、或は長蛇を逸し或健鶻に撃たるる如きあり。爾時柳雪歎称して曰く、汝の技賞すべし。段位に比して数々妙著ありと。而しておのれ亦苦思して之に応じ、悪戦苦闘して終に之を圧伏す。局に当る者と隣室に在る者と数人一時に敗れ、唖然として言ふところを知らず。是の如くにして柳雪数々苦み技愈々進みたりといふ、奇なる哉天の才人をして其才を発せしむる所以や。

三十 大橋宗珉天野宗歩と死戦す

 大橋宗珉・天野宗歩と死戦す

天野宗歩は妙技を以って将棋界を圧倒するところは、皆目を見開いて驚くほどであった。かたや大橋宗珉も、また一方の英雄であった。しかし宗歩に対しては一局も勝つことができなかった。たまたま嘉永五年(1852年)十一月十七日、将軍の面前において宗歩と宗珉は決戦をするよう命じられた宗歩は初めて御前で技を示そうとしていた。宗珉は名人宗与の後を継ぐものであって、将棋で家禄をもらっている身であった。この時において、、宗珉は静かに考え、また憂いながら気持ちを奮い起こして、自分は、常日頃は宗歩に勝つことができないが、天よ天よ、どうか、この一局を勝たせてくださいと祈った。宗珉の妻もまた、神に祈って夫が勝つことを望んだ。夫妻が、必死に悲願している日々が過ぎ、十七日に至って二人は対局した。宗珉はいつも先制攻撃をしかけては敗れていた。この日は宗珉は家での検討を以って、宗歩に先に攻撃を仕掛けさせた。宗珉の心中は察すべきであろう。しかし宗歩は落ち着いていた。戦いが漸く起こるころ、宗珉の妻が家にあって時期を待っていたとき、ついに勝敗が決まろうとしていた。そのとき、宗珉の妻は心配しながら悶え苦しんでいたが、遂に心が煩悶に耐えられなくなった。時は、まさに厳冬の時期であり、凛とした風が肌を裂くようであったが、宗珉の妻はにわかに起って、しきりに冷たい水をかぶり呪術を持って、自分の報じている神にお願いして夫が強敵を倒せるように祈った。宗珉の宗歩と戦う意志は、鉄を貫き、石を通すの気概があったとはいえ、戦々恐々としており、壮士が惨めったらしく言葉を失っているかのようなさまであった。宗歩はこのようではなく、縦横無尽に好きなように指していた。戦い続けて四十数手目に、宗歩に六八銀}の失着があった[48]。宗珉はこれに乗ずる妙計を得て、連続して厳しく攻めて緩むところがなかった。宗歩ももとより神算を持ち、智力にすぐれていたので、力の限り勇戦したのであるが、徐々に非勢になっていき、再び挽回することはできなかった。宗珉はさらに奮って追撃し、最後には陸遜が関羽を斬ったような功績を成し遂げた。その棋譜は今でも残っており、世間はこれを伝えて語り草としている。あるいは、この一戦の後、宗歩は憤懣やるかたなく血を吐き、宗珉は狂喜して気が違ったようになったと。技芸もまた、ここまで至ると人を動かすことがあるというべきであろう。

 大橋宗珉天野宗歩と死戦す

天野宗歩の妙技の一世を圧するに当りて、人皆披靡辟易す。大橋宗珉も亦一方の雄たらざるに非ず。然れども宗歩に対しては一局も能く克つこと無し。たまたま嘉永五年十一月十七日、将軍面前に於て宗歩宗珉決戦を命ぜらる。宗歩は初めて柳営に技を示さんとす。宗珉は名人宗与の後にして、禄を将棋に食む者なり。是に於て宗珉粛然として思ひ、慨然として奮つて曰く、我平生宗歩に克つ能はずと雖も、蒼天蒼天、願はくは、此一局を贏得 えん、名人宗与の後なり、禄を将棋に食む者なり、死力を尽して当るべし、苟も敗るべけんやと。宗珉の妻も亦神に祈つて夫の克たんことを求む。夫妻悲願誠苦する事日有り。十七日に至り二人局に対す。宗珉は平生先着するも敗る。此日は宗珉其家の故を以て宗歩をして先づ手を下さしむ。宗珉の心中察すべし。而して宗歩は晏如たり。戦漸く発する比、宗珉の妻、家に在りて時を計るに、勝敗の機まさに動かんとす。憂慮愁悶、心熬煎せらるるが如くに遂に堪ふる能はざらんとす。時正に厳冬、凛風膚を劈く、妻急に起つて連りに寒水を破り密呪を持し、其の奉ずる所の神に逼 つて強敵折伏を求む。宗珉の宗歩と戦ふや、中に鉄を貫き石を透すの意気を蔵すと雖も、戦々兢々、壮士惨として語無き者の如し。宗歩は則ち然らず、縦横揮灑す。戦つて四十余着に及ぶ時、宗歩六八銀の一着あり。宗珉忽ち之に乗じて計を得、佳謀連続緊しく攻めて緩めず。宗歩神算多智、勇戦甚だ力むと雖も、勢漸く非にして復た挽回す可からず。宗珉追撃奮進、終に陸遜関羽を斬るの功を成す。其譜今に存し、世伝えて以て談柄となす。或はいふ、此一戦の後、宗歩憤懣して血を吐き、宗珉狂喜して瘋を発すと。技 わざも亦是 ここに至つて人を動かすもの有りといふべし。

件の対局棋譜

棋戦:その他の棋戦
戦型:相掛かり
先手:天野宗歩
後手:八代大橋宗珉

場所:江戸城 「安藤長門守宅」

  • 棋戦詳細:御城将棋(御好) 将棋手鑑下巻第42局
  • 「天野宗歩」vs「八代大橋宗珉」
  • 嘉永五年十一月十七日(1852/12/27)指し掛け
  • 十八日より十九日夜五ツまで安藤長門守宅にて

▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲5六歩 △6二銀
▲4八銀 △5三銀 ▲2五歩 △3二金 ▲7八金 △8四歩
▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8五歩 ▲2八飛 △2三歩
▲2二角成 △同 銀 ▲8八銀 △4一玉 ▲5七銀 △3三銀
▲7七銀 △6四銀 ▲6六歩 △4四銀 ▲5八金 △5五歩
▲同 歩 △同銀右 ▲5六歩 △6四銀 ▲4六歩 △7四歩
▲4五歩 △3三銀 ▲6九玉 △5二金 ▲3六歩 △8四飛
▲7九玉 △9四歩 ▲8八玉 △7三桂 ▲6八銀右 △8六歩
▲同 銀 △3九角 ▲2六飛 △6六角成 ▲7七銀引 △5六馬
▲3五歩 △4五馬 ▲3七桂 △3五馬 ▲5七角 △8五飛
▲3五角 △同 飛 ▲5三歩 △同 金 ▲4七金 △8五飛
▲5六金 △5二金 ▲7五歩 △3一玉 ▲5三歩 △同 銀
▲7四歩 △6五桂 ▲6六銀 △7七歩 ▲同 桂 △同桂成
▲同銀上 △6四桂 ▲7三歩成 △7六歩 ▲8六銀 △同 飛
▲同 歩 △4四角 ▲7一飛 △5一歩 ▲6三と △7七銀
▲同 金 △同歩成 ▲同 玉 △7六歩 ▲6七玉 △2六角
▲5二と △8七飛 ▲7七歩 △同歩成 ▲同 銀 △7六歩
▲6六玉 △7七飛成 ▲7五玉 △5六桂 ▲5一飛成 △2二玉
▲5三と △6四銀
まで110手で後手の勝ち

三十一 明治の棋聖

 明治の棋聖

明治の棋客で将棋を極めたと言える者は、伊藤宗印(十一世名人)と小野五平(十二世)の両者である。明治維新後、将棋は大いに衰えた、そのような状況にあって、伝統を残したものは伊藤宗印である。その後に、再び将棋を盛んにしたのは小野五平の功績である。この両者の技は、大橋宗桂(一世)、大橋宗英(九世)、天野宗歩らには勝るものではなかったが、その功績は、それらの先人に勝っていたといっても誰が否定するであろうか。

 明治の棋聖

明治の棋客、技の極位に至れるものを伊藤宗印とし小野五平とす。維新以後、棋道大いに衰ふ。其間に立つて、旧技を伝へて堕さざりし者は伊藤氏なり、復び盛んならしめし者は小野氏なり。二翁の技宗桂・宗英・宗歩等に勝らざるも、二翁の功は前人に勝るといふも誰か非とせん。

  • [1]原文テキストは将棋の棋譜貼り専門スレッド倉庫にあったものを利用したが、その底本は青空文庫所載のもの
  • [2]1781-1849 江戸時代の儒者
  • [3]十代宗桂 1775-1818 七段
  • [4]代々の名人が将軍に献上した100番の詰将棋集
  • [5]棋譜集。元来は『将棋名局』だったのか。1814年9月刊行。現在ネット上でも閲覧可 http://onkotisin.org/teai/meigyoku/mei.htm
  • [6]宮中に仕える女官達によって書き継がれた当番日記。1477-1826年までのものが現存している
  • [7]1596年
  • [8]菊亭晴季を指すと思われる。 1539-1617 従一位・右大臣
  • [9]勧修寺晴豊を指すと思われる。1544-1603 勧修寺家の14代当主。権大納言、准大臣・従一位。贈内大臣
  • [10]中山親綱を指すと思われる。1544-1598年。中山家14代当主
  • [11]誰に対して命じたのかは、この文書からは不明
  • [12]星野恒と思われる。1839-1917 国史学者、東京帝国大学教授
  • [13]ここの幸田露伴の字源解説は前後の脈絡が感じられないが、そのままとした。『新字源』では王は大きな斧をイメージした字であり、玉とは全くの別字であったとしているが、古くは王とほぼ同型で玉の意味を持つ字が存在しており、楷書にする際に、王との紛らわしさを避けるために点を加えて玉と書くようになったと解釈しており、玉は、珠をいくつかひもで通したかざりだまをイメージしたものであるとしている。また、白川静『字統』が採用している段玉裁編『説文解字注』の説では、元は瑕のない玉は王のように書き、瑕のある玉は今の玉の字のように書いたとしている
  • [14]水無瀬家は羽林家の格を持つ公卿の家である。水無瀬兼成は13代当主、1514-1602 正二位
  • [15]1496-1578 正二位
  • [16]水無瀬親具 1552-1632 正四位下
  • [17]1571-1644 従二位 権中納言 1642年出家
  • [18]1568-1595 豊臣秀吉の養子
  • [19]1721年
  • [20]大阪に現存している地名
  • [21]大阪の地名。現堂島近辺
  • [22]定跡、棋譜の本で現存
  • [23]長押の言い換えで、柱から柱に水平に打ち付けられた構造材を指すとも考えられる。『爾雅』に、永は長なりとある
  • [24]ここでは駒の書体を表していると思われる。安立は安身立命の略語であり、意味は、天命の帰する所を知って身を立て、心に憂いや悩みが無いことを言うとあるので、書家の雅号であろう。話の流れから水無瀬を指すと思われる
  • [25]江戸後期の書家、松本董斎と思われる
  • [26]草書体の安価な書き駒。番太郎駒と限定している点を見ると露伴の時代は王将と玉将の区別が無い駒も多かったのであろう
  • [27]現代では上手に王を譲るのが慣習なので、この俗説は現代の風習と逆である
  • [28]文安年間(1444-1448)に成立した事典
  • [29]ここでは、「手跡家」を「駒の書家」と解釈した
  • [30]1719-1760 八段、贈名人
  • [31]現在では『将棋図巧』の名で呼ばれる
  • [32]伊藤家に伝えられた書か。詳細不明
  • [33]695-775年 政治家、学者 正二位、右大臣にのぼった
  • [34]751年、遣唐副使として派遣された時のことかと思われる
  • [35]1041-1111年。正二位、権中納言、儒学者、政治家
  • [36]奈良時代に将棋が行われていたという出土史料や文献資料の裏付けが無いため、吉備真備が将棋を伝来させたとの話は疑わしい。また、この時代に中国で流行していた、寶應象棋は8x8の盤と立体造型の駒が特徴であり、小将棋とはだいぶ異なる。大江匡房が中国に伝えたという説も当時、北宋象棋の駒には砲があったという点を考えると疑わしく、少なくとも中国将棋に影響を与えたとは考えにくい。この話は民間伝承の域を出ないと思われる
  • [37]建築工芸関連の書籍と思われる
  • [38]小物の規則についての補遺の巻か
  • [39]ここでは又四郎尺・鉄尺に基づいて長さを計算した(一尺30.258cm)
  • [40]清時代の康煕年間(1661-1722)あたりの人物と思われる
  • [41]康煕年間に発明されたとされる。盤は三角形で中央に海、山城という特殊地形がある
  • [42]歴史書『資治通鑑』で有名。保守的な政治家でもあった
  • [43]最大七人で戦う。戦国七雄になぞらえた将棋。囲碁盤を使用して行われた
  • [44]江戸時代の講釈師、著述家。生没年は一説に1718〜1758とされる
  • [45]中国、明末の随筆。16巻。謝肇淛(しゃちょうせい)著。1619年成立
  • [46]五雑俎の著者
  • [47]生没年1795-1839
  • [48]内藤國男九段も『天野宗歩手合集』で失着と指摘